1998年1月24日、三船敏郎の告別式。
約1,800人が青山葬儀所に集まる中、一人の男の姿がありませんでした。
黒澤明です。
病のため出席できなかった黒澤は、三船の長男・史郎に弔辞を託しました。

「三船君に会いたくて、ずっと気になっていた」
「とにかく僕は、三船という役者に惚れこみました」

この言葉を、黒澤は生きている三船に伝えることができませんでした。
1946年の運命的な出会いから、『羅生門』『七人の侍』『用心棒』『赤ひげ』まで——16本の映画を共に作り、世界の映画史を変えた二人。

しかし1965年を最後に、32年間、一度も映画を作ることはありませんでした。

なぜ黒澤は三船を使わなくなったのか。
なぜ三船は32年間、黒澤を待ち続けたのか。
そして、黒澤が最後に伝えたかった言葉とは——

「世界のクロサワ」と「世界のミフネ」
二人の知られざる物語をお届けします。
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📚 参考資料
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・『黒澤明と三船敏郎』ステュアート・ガルブレイス4世(亜紀書房)
・『天気待ち 監督・黒澤明とともに』野上照代(文春文庫)
・『黒澤明 夢のあしあと』黒澤プロダクション
・『三船敏郎 — 世界のミフネと呼ばれた男』田中壽一
・『映画を愛した二人 黒澤明・三船敏郎』阿部嘉典
・NHKアーカイブス「黒澤明・三船敏郎」関連番組
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この動画が心に残りましたら、あの時代を一緒に過ごしたご友人と語り合うきっかけにしていただければ幸いです。

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#黒澤明 #三船敏郎 #昭和映画 #七人の侍 #日本映画 #時代を生きた声

12件のコメント

  1. あくまでも個人的な感想だけど、黒澤さんは、これ以上耐えられなかったんじゃないかな。それぐらい、三船さんを演出することは、全身全霊を要することだった。何しろ相手は稀代の猛獣なのだ。長男の久雄が言っていたように。極度の緊張状態。心が折れる寸前の極限状態だったのかも知れない。つまり、しんどい思いをしていたのは、監督の方だった。最後の『赤ひげ』で、身も心も消耗しきっていた。これ以上は限界だった。三船の方は堪えていた。だから、32年も待ち続けた。

  2. 野武士が百姓を襲うなんて有るわけ無い。年貢は領主のものです。野武士は旅人を襲います。黒澤映画何て全然面白くない。

  3. いや、黒澤監督作品30本のうち、半数以上が三船主演という事が異常なのだよ。
    監督と役者がコンビを組んで作品を作る事は珍しい事ではないが、
    こんなに強固な相互依存関係は他に例を見ない。

  4. 興味ある内容で拝見させて頂きました。しかしナレーションの日本語の酷さに幻滅です。漢字の誤読、句読点の置き方のミスなど…。ご配慮下されば幸です。

  5. もし「赤ひげ」以降、二人がタッグを組んで作品を撮ったとしても、以前の作品以上の出来にはならないと思うな・・・モノクロ時代の二人が頂点だった。

  6. トラトラトラ撮影時の黒澤監督のご乱心(失礼)には、撮影環境のみならず、三船との訣別も影響を与えているように思う。あえて素人の政財界の海軍出身者をキャスティングすることで、自身のキャラクター造形のイメージの世界から三船依存を振り払おうとしたのかもしれない。そのくせ出演した元本職の軍人に「貴様それでも海軍軍人か!」と怒声を浴びせたという。自身には軍歴はないのにね。分身だった三船の様には、彼のイメージを体現してもらえなかったということだね。降板後、引き継いだ深作・舛田両監督と、黒澤は格下に見ていたらしいがリチャードフライシャー監督によって映画は完成した。一新した田村高廣達日本側のキャストと、後半のフライシャー監督の改造実機をふんだんに使った戦闘シーンで、この映画はマスターピースになった。
    映画って本当に面白い。

  7. 三船も黒澤も、リアルタイムには、影武者位からの晩年しか知らないから、黒澤映画は、なんかリアル感のない、演劇みたいな映画だなあとしか思えなかった。
    特に最晩年は、退屈な映画で、感性が古すぎた。ジョンウェインみたいというセリフのシーンで、どこのおじいさんのセリフかと思ったのを思い出します。

    三船も晩年はなにをやっても三船で、若い頃の凄みを超えられなかった印象です。赤ひげにもその印象があるので、良い時期に別れたのかなとも思えます。

    作品そのもの、三船のキャラクターが、外国受けする内容だったなとも思いますね。

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